北海道開拓の歴史と移住について、村内の建造物などと関連付けながら概括的に紹介します。北海道開拓の村の見学の前後にご確認いただけると、北海道開拓の歴史がより一層、興味深いものになります。
1.開拓使の設置から北海道庁へ
政府は明治2(1869)年7月、「開拓使」を設け、北海道の本格的な開拓に着手しました。
開拓使は、欧米の文化・技術を積極的に取り入れ、それをもとに農業、鉱工業などの新しい産業を興し、交通を整備し、開拓の基盤を固めるとともに、北方の警備に努めました。
明治15(1882)年2月、開拓使が廃止となり、札幌・函館・根室の三県が置かれます。翌年には農商務省の北海道事業管理局が置かれ、北海道の行政を担いました。明治19(1886)年1月、政府は三県一局を廃止し、北海道庁を設置しました。そして、明治時代の半ばころから、北海道への移民が急激に増加し、開拓が著しく進展しました。
~旧開拓使札幌本庁舎~
2.さまざまな移住
開拓使から北海道庁の時代へと、開拓政策が変化する中で、北海道には本州などから多くの人々が移り住みました。移住の規模はさまざまで、貧しさや災害のためにそれまでの土地で生活できなくなった場合や、新天地での豊かなくらしを求めた場合など、移住した理由も人それぞれでした。しかし、郷里とは気候も植生も異なる地での開拓には、大変な苦労が待ち構えていました。
~明治中期の上川地方の開墾風景を描いた図(ビジターセンター講堂 緞帳)~
※木村捷司(1905~1991)製作の壁画「開拓」の一部
また、北海道庁は、移住に関する情報を広めるため、表紙を北海道の情景や産物で飾り、北海道の概況や土地取得の手続きなどをまとめた「北海道移住手引草(明治33(1900)年に北海道移住案内を改題したもの)」などを発行し、府県や町村を通して大量に配布しました。
~北海道移住手引草~
1)士族団の移住
明治初期には、明治維新で新政府と対立し、領地を失った旧会津藩・仙台藩など、東北地方の士族たちが多数北海道に移住しました。彼らは旧領主を中心に集団で移住し、主従の固い結束のもとに、開拓を成功に導きました。
その後、家禄(武士に与えられた給料)の処分が進められたため、全国的に失業士族が増し、士族授産(士族に職を与えること)政策に力がそそがれました。その結果、国や元の藩主・領主などの援助のもとに各地から多数の士族が移住しました。
~仙台藩亘理領ゆかりの旧岩間家農家住宅~
~稲田家ゆかりの旧武岡商店~
主要な士族移住
2)屯田兵の移住
屯田兵制度は、ロシアの南下に対する国防と北海道の開拓、さらに士族授産を兼ねて設けられました。
明治8(1875)年から同32(1899)年までに道内各地に37の中隊(兵村)が配置され、7,337戸、家族を合わせると約4万人が入植しました。明治23(1890)年までは士族、そのあとは平民が主体でした。本州で移住希望家族を募集し、適格者は現地までの旅費・支度金が与えられ、さらに兵屋と給与地のほか、3年間は米や塩菜料などが支給されました。彼らは厳しい規律のもとで、開墾・営農と軍事訓練に励みました。
~旧納内屯田兵屋~
屯田兵入地一覧
3)会社組織による移住
明治初期には広い未開地の払い下げを受けた開墾会社に応募して移住した人々もいました。
多くは資金が乏しく、北海道の農業に不慣れだったため、移住後は苦難の道を歩かなければなりませんでした。
なお、明治後期になると小作農民を移住させて大農場を経営する開墾会社が多数成立しました。
~北越殖民社ゆかりの旧菊田家農家住宅~
主な会社組織による移住
4)宗教団体の移住
信仰を同じくする者が、新しい理想郷の建設を目指して団体移住した例も見られます。
教義を核とした信者の結びつきは、苛酷な労働と貧困、雪と寒さの厳しい冬の生活という悪条件を克服して、北海道の開拓を推し進めました。
開拓の村の「旧浦河公会会堂」はキリスト教徒を主とする団体移住者たちの心のよりどころとなった建物です。
~赤心社が建てた旧浦河公会会堂~
主な宗教団体による移住
5)農民の団体移住
北海道には「山形」「福島」「岐阜」「香川」「鳥取」「北広島」などの県名、「越後」「信濃」「伊勢」「出雲」などの国名、「礪波(となみ)」などの郡名、その他「庄内」「金沢」「吉野」「新十津川」などの出身地の名を付けた地名がたくさんあります。
郷里(出身地)を同じくする人たちが、指導者を中心にまとまって移住し、互いに助け合って開拓に励みました。道庁もこの団体移住を奨励し、様々な便宜を与えました。その入植地には、出身地の言葉や風習などが伝えられました。
~富山県から移住し、ワクノウチ造で建てた
旧樋口家農家住宅~
~郷里の諏訪神社(後の諏訪大社)の
御分霊をうつした旧信濃神社~
6)一般の単独移住
士族移民や屯田兵、農業移民などの集団移民に対して圧倒的に数が多かったのが、単独の農民移住で、その中には、自作農となった人々のほかに、大農場の小作移民も含まれています。北海道移民の中で最も多かった農業移民のほかに漁民や商工業者、鉱山や土木工事の労働者など多様な職種の移民があります。
明治初期から大正11年までの北海道移民の総数は約200万人で、明治後期からは毎年5万人~8万人が移住しました。
~移住者が最初に建てた開拓小屋~
7)移住の動機
大正4~8年に、道内各地に集団で入植した66の農業団体について調査した結果によると、全体の66%に相当する44団体が生計困難を移住の動機としてあげています。これ以外では、北海道の農業経営が有望と考えた者、自分の土地を所有して独立した経営を望んだ者、天災・治水工事等で土地を失った者がそれぞれ10団体前後もあり、北海道移住が様々な理由から行われたことがわかります。
8)移民の出身地
北海道移民の出身地(府県)は全国に及んでいますが、明治15(1882)年~昭和10(1935)年の移住戸数を見ると、青森県が最も多く約68,900戸、2位が秋田県の約64,000戸、3位が約61,600戸の新潟で、以下、宮城、富山、石川、岩手、山形、福島、福井が上位を占め、東北・北陸地方の出身者が全体の67%以上に達していました。
~秋田県男鹿半島から明治末期に羽幌に
移住した「旧秋山家漁家住宅」~
~徳島県から新篠津村に入植し、その後旭川で
染め物業を創業した「旧近藤染舗」~
3.おわりに
明治2(1869)年に約6万人に過ぎなかった北海道の人口は、開拓使、三県時代を経て、北海道庁が設置された明治19(1886)年には約30万人になりました。その後、急激に増加を続けて明治34(1901)年には100万人を超え、開道50年にあたる大正7(1918)には217万人を数えるまでになりました。
また、明治19(1886)年に3万町歩(29,730㌶)にも満たなかった耕地面積も大正7(1918)には約80万町歩(792,800㌶)に達しました。
現在の北海道の人口は、約520万人(令和3(2021)年3月現在)。現在の北海道に至るまでには、長い苦難の道のりがあったのです。
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