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北海道開拓の村は、明治から昭和初期にかけて建築された北海道各地の建造物を、54.2㌶の敷地に移築復元・再現した野外博物館です。
ここを訪れる人たちに開拓当時の生活を体感的に理解してもらうことと、文化の流れを示す建造物を保存し、後世に永く伝えることを目的に1983年4月に開村しました。
開拓時代の人たちの知恵と努力を見ることができ、建造物一つ一つが開拓当時へと導いてくれることでしょう。
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市街地群
農村群
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- 旧札幌停車場
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この建造物は明治41(1908)年に建てられ、昭和27(1952)年まで使われた札幌停車場の正面外観と形状を4/5に縮小し、管理棟として再現しました。
外観には同時期のアメリカで木造建築に用いられたスティックスタイルと呼ばれる形式が取り入れられ、下見板と棒(スティック)による模様付けが特徴です。この駅舎は「停車場」とも呼ばれ、多くの方々に親しまれていた建造物です。・建築年代 明治41年(1908)(再現建造物)
・旧所在地 札幌市中央区北5西4
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- 旧開拓使札幌本庁舎
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1869(明治2)年、明治新政府は、草原と林におおわれた原野であった現在の札幌を、北海道の政治の中心とすることに決めました。そして、新しいまちづくりのなかで、役所や学校、お雇い外国人教師の官舎などには西洋風の建築スタイルが取り入れられ、札幌中心部はアメリカ東部の都市のような雰囲気になって行きました。
そのシンボル的な建物として1873(明治6)年10月に開拓使札幌本庁舎が完成しました。しかし、1879年に火事で焼失しました。・建築年代 明治6年(1873)(再現建造物)
・旧所在地 札幌市中央区北3西6
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- 旧手宮駅長官舎
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明治13年(1880)、北海道で初めての鉄道として、幌内鉄道が敷設されました。その職員官舎として建てられたのがこの建物です。
骨組みや上げ下げ窓、外部の意匠などに洋式の手法が用いられています。手宮宿舎5号と呼ばれていたもので、同じ形のものが6棟建てられていました。・建築年代 明治17年(1884)
・旧所在地 小樽市手宮町
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- 旧開拓使爾志通洋造家
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この建物は開拓使の官舎として建てられましたが、完成後、順次払い下げられました。アメリカ中西部の建築様式を模範とし、外観は洋風ですが、内部は畳敷きなどの和風で、和洋折衷の建物です。
外観に白ペンキが塗られていたことが、俗称「白官舎」の由来で、1棟2戸建ての建物が4棟並んで建てられていました。・建築年代 明治11年(1878)
・旧所在地 札幌市中央区南2西6
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- 旧福士家住宅
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幕末から明治期にかけて、造船・通訳・気象観測・測量など広い分野で活躍し、北海道開拓に貢献した福士成豊〔天保9年(1838)~大正11年(1922)〕が、明治半ばから大正11年(1922)まで居住した建物です。
明治前期の洋風建築と明治後期の和風住宅を接続した特異な建物です。・建築年代 明治時代
・旧所在地 札幌市中央区北4東1
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- 旧松橋家住宅
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明治・大正・昭和にわたる都市生活者の住宅で、大正7年(1918)以来、松橋家が居住していました。
松橋家は、明治初期に秋田県から札幌に移住し、農業および土地会社経営に従事しました。
建築以来、数度の増改築が見られますが、大正7年の状況に復元しました。・建築年代 明治30年(1897)頃
・旧所在地 札幌市中央区北1東7
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- 旧有島家住宅
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日本近代文学史上の代表的作家の1人である有島武郎〔明治11年(1878)~大正12年(1923)〕が明治43年(1910)5月から翌年7月頃まで住んだ建物です。
一般の住宅にも、上げ下げ窓などの洋風意匠を取り入れ始めた頃の建物です。・建築年代 明治37年(1904)
・旧所在地 札幌市白石区菊水1-1
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- 旧浦河支庁庁舎
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明治30年(1897)、北海道庁が郡区役所制度を廃止し支庁制度を設けた結果、浦河支庁が置かれました。
この建物は、大正8年(1919)に地元の浦河村および道庁の費用で建築され、昭和7年(1932)日高支庁と改称しました。昭和31年(1956)浦河町に払い下げられた後は、堺町会館や博物館に利用されていました。・建築年代 大正8年(1919)
・旧所在地 浦河町大通2丁目
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- 旧小樽新聞社
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小樽新聞は明治27年(1894)に創刊され、函館毎日新聞、北海タイムスとともに道内の代表的新聞の一つでした。
この建物は、木造の骨組に札幌近郊で産出する札幌軟石(溶結凝灰岩)を外壁に積みあげた構造で、明治期石造建築の特徴を示しています。・建築年代 明治42(1909)年
・旧所在地 小樽市堺町
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- 旧開拓使工業局庁舎
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明治6年(1873)に設置された開拓使工業局は、道路・橋梁・官庁・学校等の建設をはじめ、家材・機械・農具・車両などの製造事業を行ない、本道開拓の発展に大きな業績を残しました。
この建物は明治初期の洋風事務所建築の特徴を示し、開拓使関係庁舎として唯一のものです。
平成25年(2013)8月7日に国の重要文化財の指定をうけました。・建築年代 明治10年(1877)
・旧所在地 札幌市中央区大通東2
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- 旧北海中学校
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この校舎は、明治41年(1908)から翌年にわたって建築された本館部分です。
創立は明治38年(1905)で、前身は札幌農学校第三期生らが中心となり明治18年(1885)に設立した私立北海英語学校です。
外観の意匠は、明治半ばから大正期の官庁や学校の木造建築によく見られる様式です。・建築年代 明治42(1909)年
・旧所在地 札幌市豊平区旭町8
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- 旧龍雲寺
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篠路山龍雲寺は明治19年(1886)頃、村民の努力によって創建された浄土宗の寺です。
この建物は、明治26年(1893)頃に新築落成した本堂で、開拓期の農村の寺院建築の様式をよくあらわしています。
正面入口の向拝部分は大正年間に増築されたものです。・建築年代 明治26年(1893)
・旧所在地 札幌市北区篠路
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- 旧札幌警察署南一条巡査派出所
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明治18年(1885)、札幌創成橋の脇に最初に立てられた交番は木造で、札幌創成橋交番所と呼ばれていました。同じ木造で一度改築されましたが、明治44年(1911)の皇太子の行啓に向けて個人の篤志寄付で建てかえられたのがこの建物です。
壁のレンガは、小口面と長手面を交互に表わして積むイギリス積みを用いています。・建築年代 明治44(1911)年
・旧所在地 札幌市中央区南1西
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- 旧島歌郵便局
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北海道で近代郵便の取扱が始まるのは明治5年(1872)で、島歌には明治19年(1886)に郵便局が設置されました。
明治26年(1893)には畑野清治が2代目局長として就任し業務を取り扱いました。以後この局は畑野家により引継がれてきました。
この建物は業務用だけで、局長や職員の住居は別棟でした。・建築年代 明治35年(1902)
・旧所在地 せたな町瀬棚区北島歌
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- 旧山本理髪店
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この建物は所有者が代わっても、一貫して理髪店として使用されてきました。
傾斜の急な切妻屋根、玄関の雨よけアーチなど、大正期の洋風建築の特徴を残したスマートな外観は、理髪業とよくなじみ、北海道神宮裏参道沿いの「床屋さん」として親しまれてきました。・建築年代 大正後期
・旧所在地 札幌市中央区南1西24
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- 旧渡辺商店
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中頓別は、明治30年代に砂金掘りでにぎわい、大正5年(1916)の鉄道開通後は交通の要所として発達しました。この建物は、中頓別市街に建てられた雑貨店です。
漆喰仕上げの土蔵造は、石造やレンガ造とともに耐火・耐寒を目的とした構造ですが、北海道では建築例が少ない建物です。・建築年代 大正前期(1910年代)
・旧所在地 中頓別町字中頓別
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- 旧浦河公会会堂
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明治13年(1880)、神戸において北海道開拓会社「赤心社」が設立され、翌14年から西舎村や荻伏村に結社移民として入植しました。
「赤心社」の指導者の多くはキリスト教徒で、明治19年(1886)に「浦河公会」が組織されました。この会堂は、17年の日曜学校兼会堂に次ぐ、2代目の礼拝・集会所です。・建築年代 明治27年(1894)
・旧所在地 浦河町荻伏
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- 旧来正旅館
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東永山兵村に屯田兵として入植した来正策馬は、明治31年(1898)に退役後、開通直後の宗谷本線の永山駅前に移り、待合所を開業しました。
大正7年(1918)に大水の被害を受けたため、翌年に旅館兼待合所を新築し営業を再開しました。・建築年代 大正8年(1919)
・旧所在地 旭川市永山1-19
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- 旧三〼河本そば屋
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この建物は、明治18年(1885)頃に石川県から小樽へ移住した河本徳松(当時18歳)が、そば屋の修行を積み、三〼そば屋ののれんを継いで新築した店です。
小樽市街のなかでも最も栄えた地域にあったこのそば屋は、食事や宴会の場として多くの人びとに利用されていました。・建築年代 主屋:明治42年(1909)頃
石蔵:大正14年(1925)頃・旧所在地 小樽市住吉町
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- 旧武井商店酒造部
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この建物は、茅沼で石炭荷役、回船業を営んでいた武井家が、明治19年(1886)頃に建てたものです。
酒造業は9年後の明治28年(1895)頃から始められ、永く親しまれた清酒「松の露」や「玉の川」の製造は、戦時下の統制で酒造中止命令が出された昭和19年(1944)まで続けられました。・建築年代 明治19年(1886)頃
・旧所在地 泊村大字茅沼村
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- 旧近藤医院
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この建物は、明治33年(1900)に函館病院から古平病院に招かれ、同35年に古平町で開業した近藤清吉が建てた病院で、昭和33年(1958)まで使われました。
木造2階建の医院棟には1階に診察室、手術室、茶の間などがあり、2階に居室があります。石造2階建の倉は、明治後期建築の文庫倉です。・建築年代 医療棟:大正8年(1919)
文庫倉:明治30年(1897)頃・旧所在地 古平町大字浜町
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- 旧近藤染舗
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近藤染舗は、明治31年(1898)に創業された旭川で最も古い染物店です。
この建物は、店の繁盛にともない大正2年(1913)に地元の建築業者によって新築された店舗兼住宅です。外観や内部の間取りは、当時の店舗建築の様子をよくあらわしています。・建築年代 大正2年(1913)
・旧所在地 旭川市1-3
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- 旧武岡商店
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武岡家は、旧徳島藩の家老稲田邦植に従い明治4年(1871)に淡路島から静内郡に移住した士族移民団の一員で、明治15年(1882)から米穀、雑貨、荒物などを扱ってきた商家です。
町の発展にともない本格的な店舗兼住宅を新築し、明治34年(1901)には郵便局を開設するなど、この地方の商業の中心的役割を果たしました。・建築年代 明治31年(1898)
・旧所在地 新ひだか町字東静内
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- 旧大石三省堂支店
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札幌の菓子舗で修行した大石泰三が、大正14年(1925)帯広町の繁華街電信通りに店舗を求め、菓子の製造販売を始めた建物です。
店は親子二代にわたり、昭和30年(1955)まで営業を続けました。
建物は切妻平入で、店舗兼住宅の母屋とそれに併設する工場を再現したものです。・建築年代 明治40年(1907)頃(再現建造物)
・旧所在地 帯広市東2南5
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- 旧太田装蹄所
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大正13年(1924)から昭和20年(1945)まで、札幌市街の江別方面に通じる幹線道路(現在の国道12号線)沿いで営業していた装蹄所を再現しました。
蹄鉄屋の名で親しまれていた装蹄所は、馬が物資運搬や農耕の主役であった時代にはどこの町や村でもみられ、馬蹄の保護には欠かせない職種でした。・建築年代 大正初期(再現建造物)
・旧所在地 札幌市中央区北1東11
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- 旧藤原車橇製作所
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明治31年(1898)、兵庫県出身の宮大工藤原信吉が深川に入植し、同36年(1903)には妹背牛で車橇製造を開業しました。以後、3代にわたり営業を続けました。
この建物は、開業以来使われてきた車橇製作所を再現したものです。作業所と住宅からなり、木造切妻平入の構造です。・建築年代 明治36年(1903)(再現建造物)
・旧所在地 妹背牛町本町東2
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- 旧本庄鉄工場
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明治30年代から2代にわたって営業した本庄鉄工場の仕事場として、大正14年(1925)から昭和50年代まで使用されていました。石狩川河口にひらけた旧市街にあって、漁具や漁船の付属品のほか、農具などをつくっていました。
開拓地に欠かせなかった鍛冶屋のようすがしのばれる建物です。・建築年代 明治30年(1897)頃
・旧所在地 石狩市親船町
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- 旧広瀬写真館
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この建物は、大正末期から昭和33年(1958)まで岩見沢市街で営業した写真館を再現しました。
外観は、洋風ですが、内部の多くは和風で、和洋折衷の建物です。撮影には自然光を用いたため、写場は2階に設け、北側の屋根をシングル・スラントと呼ばれた斜めのガラス張りとなっています。・建築年代 大正13年(1924)(再現建造物)
・旧所在地 岩見沢市4東1
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- 旧札幌拓殖倉庫
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札幌軟石を使用したこの倉庫は、五十嵐倉庫合名会社より明治45年(1912)創立の札幌拓殖倉庫株式会社に引き継がれました。
この建物は札幌駅北側に隣接し、線路に直角に位置していた6棟の内の一番西側の棟です。開拓期の農産物の集散に大きな役割を果たし、地域の発展に貢献しました。・建築年代 明治40年(1907)
・旧所在地 札幌市北区北6西1
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- 旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)
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開拓使仮学校に始まる札幌農学校(現在の北海道大学)は、明治9年(1876)、現在の時計台付近に開学しました。明治36年(1903)に現在の北大構内へ移転し、寄宿舎も新築され、同40年に恵迪寮と命名されました。
当時は玄関棟と2棟36室および厨房棟がありましたが、ここでは玄関棟と2棟12室を復元しました。・建築年代 明治36年(1903)
・旧所在地 札幌市北区北17西8
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- 旧札幌師範学校武道場
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この建物は、北海道教育大学札幌校の前身である北海道札幌師範学校の武道場として、昭和4年(1929)に建設されました。
外観は入母屋造、平入の和風建築意匠を強調した木造平屋建で、剣道・柔道場として使用されました。戦後、昭和24年(1949)からは一時、図書館、ついで第二体育館に利用されました。・建築年代 昭和4年(1929)
・旧所在地 札幌市中央区南22西12
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- 旧土谷家はねだし
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はねだしは、鰊漁家の付属施設として、海岸の地形に合わせて海側へ跳ね出す形で建てられた倉です。正面を経なくても床の開口部を通して、直接荷物の出し入れを行うことができます。
この倉は漁具、漁獲物、魚粕・身欠鰊・数の子などの加工品を収納するために使用されました。・建築年代 明治20年(1887)頃
・旧所在地 八雲町熊石根崎町
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- 旧青山家漁家住宅
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青山家は安政6年(1859)に山形県から渡道し、小樽沿岸を中心に鰊建網などを経営した漁家です。
建網経営には、番屋をはじめ網倉、船倉のほか海産干場、船入澗など多くの施設、設備を必要としました。
鰊漁場の建物が、このように集約的に保存されているところは少なく、貴重な文化遺産の一つです。・建築年代 大正8年(1919)
・旧所在地 小樽市祝津町3
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- 廊下
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廊下は陸揚げした鰊を一時収蔵するための施設です。漁期後は、船・櫓・櫂などの大型の漁労具や加工用具を収納する倉として利用されました。
壁の落し板構造は、魚の搬入や建物の周囲で行なわれた「鰊つぶし」と称した加工作業に便利なように工夫したものです。・建築年代 ―(再現建造物)
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- 旧秋山家漁家住宅
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秋田県男鹿半島から明治末期に移住した秋山嘉七が、焼尻島周辺での鰊漁が盛んであった時期に建造した漁家住宅です。同家では3代にわたり、鰊刺網漁のほか磯回り漁などを続けながら、昭和53年(1978)まで住んでいました。
建物は、洋風の棟飾りをもつ寄棟造です。・建築年代 大正9年(1920)
・旧所在地 羽幌町焼尻白浜
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- 旧山本消防組番屋
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この建物は、札幌の山本地区にあった消防用具の格納庫です。消防組織は大正8年(1919)頃からの地区の自警団を前身とし、のちに山本消防組となりました。昭和45年(1970)まで、消防活動を続けた建物を再現しました。
火の見櫓を持つ番屋は、道内農漁村の小規模な消防組織に多くみられ、防災や治安の中心施設でした。・建築年代 大正後期(再現建造物)
・旧所在地 札幌市厚別区厚別町山本
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- 旧若狭家たたみ倉
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たたみ倉は主に道南の上ノ国町周辺においてみられます。倉は長方形の角材を積み重ねて外壁を作り、屋根をかける校倉造で、北海道の建物としては特殊な構造をもっています。
近在の漁家や農家が、家具や調度品、漁具、農具などを収納するのに用いました。・建築年代 江戸時代末期
・旧所在地 上ノ国町中須田
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- 旧ソーケシュオマベツ駅逓所
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喜茂別村と徳舜瞥村(現在の伊達市大滝)の中間地点で、明治42年(1909)から昭和9年(1934)まで営業していた官設駅逓所です。他に現存するものは少ないです。
駅逓は、明治・大正・昭和にかけて、荷物の搬送や郵便・宿泊などの業務を行ない、北海道の発展に大きな役割をはたしました。・建築年代 主屋:明治40年(1907)頃
厩舎:大正4年(1915)・旧所在地 喜茂別町双葉
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- 旧田村家北誠館蚕種製造所
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絹(糸)の原料となる蚕の卵(蚕種)をとる建物です。浦臼村の養蚕伝習所教師だった田村忠誠が、当時模範とされた東京蚕業試験場の蚕室を参考に、明治34年(1901)から同38年にかけて建築したものです。
ここでは蚕種の製造販売を行なうかたわら、多くの養蚕技術者を養成しました。・建築年代 明治38(1905)年
・旧所在地 浦臼町ウラウスナイ
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- 旧農商務省滝川種羊場機械庫
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この建物は農商務省の技師が北欧の建築様式をとり入れて設計した農業機械庫で、大正中期に建築された種羊場の代表的な施設です。
基礎には自然石を積み、小屋組は洋風構造のキングポスト・トラス組で、建物の正面と左右には下屋が設けられています。・建築年代 大正10年(1921)(再現建造物)
・旧所在地 滝川市東滝川
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- 旧納内屯田兵屋
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納内に屯田兵が入地したのは、明治28・29年(1895・1896)です。
明治8年(1875)に始まった屯田兵は、家族とともに兵村で暮らし、北辺の警備と農業開拓に従事しました。当初は士族を募集しましたが、明治23年からは主力を平民に移し、空知・上川・北見地方など北方内陸部に屯田兵村が作られていきました。・建築年代 明治28年(1895)
・旧所在地 深川市納内6区
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- 旧山田家養蚕板倉
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開拓使は、屯田兵の授産事業として養蚕を奨励し、琴似兵村ではその成果がみのって、屯田兵のなかに独自の養蚕施設を持つ人も現われました。
この板倉は、屯田兵として入植した山田家が建てたもので、草創期のくらしぶりを伝える数少ない建物の一つです。・建築年代 明治14年(1881)頃
・旧所在地 札幌市西区琴似1-6
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- 旧信濃神社
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間口が2本の柱で構成される、「一間社流造」という様式で、神社によく用いられる建築様式です。
旧所在地は、長野県諏訪地方の出身者が多かったので信州開墾地と呼ばれ、当初は小祠を祭っていましたが、開拓に成功し神社を建立するにあたって信濃神社と命名しました。・建築年代 明治30年(1897)
・旧所在地 札幌市厚別区厚別中央4条3丁目
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- 旧岩間家農家住宅
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岩間家は、旧仙台藩亘理領(宮城県亘理町)の士族移民団の一員として、明治4年(1871)2月に入植した畑作農家です。
この建物は、明治15年(1882)に郷里の大工によって建築され、間取りなどに郷里の建築様式が受けつがれています。一方で、仙台地方にはあまり見られない石置き屋根が採用されています。・建築年代 明治15年(1882)頃
・旧所在地 伊達市弄月町
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- 旧河西家米倉
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札幌の厚別地区の米作は、明治16年(1883)長野県からの移住者によって始められました。水田は付近の低湿地に造られ、明治20年代になり本格的に耕作されるようになりました。
この米倉は、最初の移住者の一人である河西由蔵が建てたものを再現しました。・建築年代 明治30年(1897)(再現建造物)
・旧所在地 札幌市厚別区厚別西
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- 旧樋口家農家住宅
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樋口家は富山県から移住した水田農家で、明治26年(1893)に入植し、5年目にこの家を建てました。富山出身の棟梁に建築を依頼したこの住宅には、郷里の建築様式であるワクノウチ造がみられます。材料は、近くの原始林から切り出したといわれています。
復元に際し、同じ建築様式の山口家の解体材もあわせて使用しました。・建築年代 明治30年(1897)
・旧所在地 札幌市厚別区厚別東5-3
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- 旧小川家酪農畜舎
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この畜舎は、大正末期に札幌農学校出身の小川三策がアメリカから取り寄せた設計図を参考に建築したもので、19世紀のアメリカで発達したバルーンフレーム構造が特徴です。
また、軟石(溶結凝灰岩)のサイロは、昭和初期に普及した形を再現したものです。・建築年代 大正後期
・旧所在地 札幌市清田区平岡公園
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- 旧菊田家農家住宅
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明治19年(1886)、新潟県長岡の有力者であった大橋一蔵や関矢孫左衛門などは、越後農民による北海道開拓を計画して北越殖民社を組織しました。
この建物は、その一員の新潟県魚沼郡出身者が移住直後の明治26年(1893)頃に建築し、のちに同じく南蒲原郡出身の初代菊田常吉が買い受けて居住したものです。・建築年代 明治26年(1893)頃
・旧所在地 江別市西野幌
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- 開拓小屋
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開拓小屋は開墾小屋とも称し、移住者が最初に建てた住居です。
丸太を埋め立てて柱とし、桁や梁、垂木をわたし、笹や茅などで屋根や壁を葺き、出入口と窓にはムシロを下げました。屋内は一部が土間で、他は笹や枯草を重ねた上にむしろを敷いて居間とし、炉を設けました。この小屋は明治期のものを再現しました。・建築年代 -(再現建造物)
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- 森林鉄道機関庫
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北海道庁は、大正8年度(1919)から拓殖計画に国有林の直営伐採事業を加え、木材搬出のための森林鉄道の敷設に着手しました。その後、道内各地で建設が進められ、昭和初期には従来の流送にかわって鉄道運材が主流となり、機関車や貨車のほか、機関庫、貯木場も整備されました。
・建築年代 大正後期(再現建造物)
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- 旧平造材部飯場
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この建物は、大正後期に下川村奥名寄の御料林内に建てられた造材飯場を再現しました。造材飯場は、伐木や造材に携わった山子や集・運材作業に従事した藪出し、馬追いなどが山中で寝泊まりした小屋です。この飯場には、40人ほどの山子と藪出しが生活し、馬追い飯場は別棟になっていました。
・建築年代 大正後期(再現建造物)
・旧所在地 下川郡下川町一の橋
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- 炭焼小屋
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北海道は、国内有数の木炭生産地で、主に黒炭が生産されました。炭窯の種類は多様であるが、明治・大正期の北海道では、角窯が多く使われていました。一般に専業の炭焼きは大型の窯を、副業では小型の窯を使用していました。
この炭窯は大正末期の副業製炭業者の角窯を再現したものです。・建築年代 大正後期(再現建造物)